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反骨の記録26

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軍服脱いだ平和主義者

反戦思想に目覚めた海軍大佐がいた。松山市出身の水野広徳。第1次世界大戦(1914~18年)の現場を踏み、意識が変わった。大佐といえば少将に次ぐ上級将校。先の大戦末期、沖縄海上特攻作戦で沈んだ戦艦大和の艦長も大佐だった。いわば戦争を遂行する軍上層部にいる人間の転向だった。

広島県の海軍兵学校に数度の受験失敗をへて入学。大尉でのぞんだ日露戦争は、水雷艇長として日本海海戦に加わり戦功を上げた。連合艦隊司令長官・東郷平八郎から感状や勲章など水野の遺品を郷里の松山市立子規記念博物館が所蔵している。

4年前に開かれた特別展「軍服を脱いだ平和主義者」では、水野が心境の変化をつづった「剣を解くまで」の直筆原稿などが紹介された。

「北仏戦場の惨景を見て現代戦争の恐るべく、忌むべく、厭うべく、呪うべきを知り……ドイツに来て敗戦の惨苦に悩める種々相を見るに及び……軍備第一の軍国主義の殻を脱ぎ棄てて翻然軍備撤廃主義者となった」

同館学芸員の平岡瑛二さん(34)は言った。「軍人でありながら、自分たちの存在を否定するような考えに至ったということに驚きます」

それは日露戦争後、戦史編纂に携わった東京での内勤が起点となった。記録に向き合い、書を読むうちに官位や勲章などへの興味を失っていった、と「剣を解くまで」に記す。このころ「兵は凶器なり」で始まる日露戦記「此一戦」を出した。

この印税収入に知人の援助を加えた私費でヨーロッパに渡った。第1次大戦中の16~17年は英仏伊米をめぐり、戦後の19年には北仏の激戦地や敗戦国ドイツを視察した。2度目は水野の強い希望でようやく上司の許可を取った、と平岡さんはいう。

生活の場が戦場と化していた。すべてを巻き込む総力戦の結果、1千万人という戦死者を出した。廃墟と化した町、大量の失業者、物資の欠乏。敗戦国はいうに及ばず、戦勝国でも失うものの方が大きい近代戦争を目の当たりにした。これまでの考えが根こそぎ覆された。

欧州から帰国後、当時の海軍大臣、加藤友三郎に感想を求められた。軍備は撤廃した方がいい、と水野がありのままを述べると、加藤の返事は「ふん、そうか」だけだったという。

帰国翌年の21年、軍隊内の民主化を求める文章を新聞に寄稿。謹慎処分を受け、そのまま現役引退を選んだ。慰留されたが、反戦思想を持ちながら海軍にいることは良心的に許されないと決断した。(中村尚徳)

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