愛媛県松山市は、夏目漱石が明治28年から29年までの一年間、松山尋常中学で英語教師として住んだ都市であるとともに、漱石の親友正岡子規の生誕地でもある。そして漱石と子規は慶応3年生まれの同い年である。漱石没後100周年にあたる2016年には、漱石没後100周年を大会テーマとして第53回日本英学史学会年次大会を松山大学樋又キャンパスにおいて開催した。(大会会長には新井英夫先生にお願いし、筆者は大会実行委員長を務めた)翌2017年度、松山市は「子規・漱石生誕150年」にあたり記念の取り組みを行なっており、「子規・漱石を未来につなごうプロジェクト」と題して参加企業、団体を募った。
そこで筆者は同プロジェクトに登録し、4月28日から5月14日まで、松山市道後にある松山市立子規記念博物館ロビーにおいて、夏目漱石翻訳書展を開催した。展示の翻訳書は32年の歴史を閉じて閉館した倫敦漱石記念館館長恒松郁生氏のコレクションをお借りし、設営は熊本国際交流事業団の主催により開催された漱石翻訳書展を叩き台とさせていただいた。
パネル制作は日英バイリンガル表示とした。また内容は松山開催に独自性を持たせるべく『坊つちやん』のコレクションを充実させた。漱石作品の翻訳の中でも『坊つちやん』は英訳書だけでも破格に種類が多い。筆者は2002年漱石のクラパムコモンの下宿が史跡認定されたBlue Plaque除幕式に参加するとともに、漱石の長女筆子の娘である松岡マックレイン陽子氏とも交流を深めたが、それらは漱石のロンドン5番目の下宿の真向いに倫敦漱石記念館を開館されていた恒松元館長の働きかけのお陰であった。しかも稀少な言語も含む翻訳書コレクションは、元々倫敦漱石記念館に展示されていたものである。そこで閉館した記念館へのオマージュも込めてパネルには漱石クラパムコモンの下宿と記念館を紹介する内容を盛り込んだ。
企画は想定以上に大掛かりとなり、松山市教育長が正式挨拶、筆者も主催者スピーチをする開展式までおこなった。しかしなにより報われたのは、世界各国語に訳された漱石作品を前に展観者に思い思いの関心をもっていただけたことである。
 また、会期中、南海放送の協力により、会場奥にある子規記念博物館会議室において、恒松氏、筆者、司会アナウンサーの3人により90分にわたる公開生放送ラジオシンポジウムも併催した。
 この公開ラジオシンポの打合せをしていた際、倫敦漱石記念館に触れると、恒松元館長はトークに矛盾があってはいけないのでまだ非公開ですが、と倫敦漱石記念館再開の情報を漏らされたのである。実は閉館の後、資料閲覧などを求める声が絶たず、それらの声に個別に対応するのが大変なことを悟り、事前予約に限り自宅で再開することとなった。
 共同通信がこのニュースを流したのはその数日後の展覧会期中であった。大型連休でニュースが品薄になったタイミングを見計らい、狙い通り連休中に発表すると、愛媛、熊本の地方紙を含む新聞各社が記事を載せた。
 松山市役所、文化・ことば課(全国でも珍しい課である)のホームページには当プロジェクト報告が掲載されている。